建築と人間の協調性と個性の関係

上海に来ています。
現在、様々なプロジェクトが同時進行中で、上海のみならず、大連や北京の方も含めて現在4か所の工場にて、6プロジェクトの製作が進んでいます。
マテリアルワールドにとって、中国との関わりはとても重要なものになっています。
さて、
毎回ここにきて感じる都市のエネルギーはやはり建築を通じて、目から飛び込む情報によるものが大きいと思います。
ただし、その建築、あるいは都市としての構成は東京のそれと同様にごちゃごちゃとした個性の主張の集合体であり、規律や制約があまり見て取れません。
そのカオスが一つの都市のアイデンティティになっているようです。
一方、ヨーロッパや、以前ヨーロッパの国々に統治されていたことのあるような都市では、建築には一定のルールが課せられ、街並みや都市計画に重きが置かれているように感じます。
この違いはなんだろう?
これをずっと感じているのですが、僕なりの解釈として、個々の人間に対する制約の違いが影響しているのではないか?と思います。
日本はとても協調性を重んじる側面があります。
ランドセルや黄色帽から始まって、制服、体操着、カバンや靴、髪型やスカートの長さに至るまで学生時代から徹底的にルールに縛られます。
サラリーマンになっても、その傾向は大きくは変わりません。
少なくとも、僕がいたカナダではこのどれもがありません。
異なる人種で構成された社会において、何か一つのモノを強制的に義務付けるというケースは少ない。とても自由なのです。
中国も人民解放前は人民服などに象徴されるように、ある一定の縛りがあったと思います。(詳しくありませんが…)
そうした個人に課せられる制約の反動として、建築個々には自由の表現がに表れているのではないかと思うことがあります。
逆に欧米では、個性が尊重され、人と違うことを大切にするように育てられるので、そうしたストレスよりも、個性の中にも都市との協調性を確保する方がスマートなあり方として着地しているのではないか?と…。
もしくは、都市や建築には古くから制約満ちた環境が支配しているので、そのストレスの反動として、各人の個性は豊かなものとして伸びていくのかもしれません。
歴史ある街並みのイタリアミラノで開かれるミラノサローネなどは、まさにそのギャップを象徴していると思います。ベネトンやフェラーリが誕生するのですから面白いものです。
あくまでこれは僕の勝手な解釈ですが、この上海の混沌とした街並み、競い合っているかのような夜の電飾などを見るにつけ、そんなことを感じています。

業務はもちろんですが、また何か面白いものを発見したいと思っています。

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