人生にはいろんな節目があるものです。
毎年やってくるものと、人生で1回しかないものと、日々の小さな出来事から、人生観が変わる程の大きなことまで、毎日同じように過ごしているようで、節目といえるタイミングを通過してきていると思います。
例えば、入学、卒業、就職、転勤、転職、起業、結婚式、出産、大切な人との別れ、とか。
ここ最近、身近でとても大切な人が亡くなるという悲しい出来事が続き、少々精神的に凹む時期がありました。
今でも吹っ切れたわけではありません。
自分と同じ年齢、あるいは年下という年齢であっても、命が途絶えてしまうという事実。それぞれに、愛する家族や幼い子供を残して…。
神様どうして?何か悪いコトしましたか?というくらいあまりにも厳しい試練。
同様に、昨年の東日本大震災でも一瞬にして沢山の尊い命が奪われて、大人だけでなく、多くの小さな命も犠牲になりました。
先日も仙台に行った際に、沿岸部を訪ねてきましたが、着実にいろんなことが動き出しているとはいうものの、多くのものが流されて、建物の基礎だけが残り、あるべきはずの無いところに横たわる船、ひどく折れ曲がった標識など、まだまだ途方もない時間が必要だろうと感じるその光景には愕然としてしまいます。
理不尽というか、不公平といか、どうしても納得がいきません。
もし神様がいるのなら、神様はこれらの試練から一体何を学べというのか、怒りとも言うべきやり場のない感情が溢れてしまいます。
でも、受け止めなくてはならないわけで・・・。
僕は、こう考えるようにしました。
今、自分がこの瞬間に生きている、生かされている限り、そこには何か意味があるはずで、生きたくても生きられない人が沢山いるのだから、終わりがくるその時まで、この命を精一杯に輝かせよう、と。
生まれてきたことに何か定めがあるのなら、それをまっとうするために、自分の好きと得意を最大限発揮して、自分らしく毎日を前向きにこれ以上ないってくらいに、一生懸命に生きてやろう!
八方美人として無理して周囲と合わせるために自分自身を抑え込むより、自分らしさが最大限発揮できる環境で、感性や価値観の合う人との時間を大切にして、キラキラと笑顔でいれる毎日を過ごそう。
回り道をしたり、遠慮したり、やりたいことを我慢する、そんな時間はもったいないというか、こないかも知れない明日に後悔するより、今日で最後になっても満足できるくらい自分自身に対して正直に過ごそう。
もちろんなんでもかんでも好き勝手をしていい訳ではありませんが、好きでもない人と無理して過ごす時間、イヤイヤやっている仕事に費やす時間、何かを得るために何かを犠牲にしているという時間、文句や愚痴の原因をつくっていることに費やす時間、もしそんなことがあるなら、一刻も早くその状況から脱した方がいい。
少々乱暴かもしれませんが、僕はそんな風に感じています。
そこには多少の摩擦や障害も伴うかもしれませんが、そこから逃げない自分になろうと思います。
みんなそれぞれに社会における役割があるはずで、それは一人ひとり違っていていいはずで、誰かと同じところを目指す必要もなく、自分にしかできない、自分が一番輝くことを探して、もっとやりたいように生きていいはず。
その輝きこそが周囲を照らすようになる。
このブログでこんなことを書いていいのか?と最近ずっともう一人の自分と心の中で葛藤していましたが、自分の気持ちに正直になろうと思って、600回を迎えたこのブログで、心のモヤモヤを晴らすべく、このことを書きました。
今までもこういう気持ちを大切にしてきたつもりですが、もっともっと自分軸を中心に据えていいんだ!と、今はそんな気持ちでいます。